うつとしにたい

ひとはしんでも、いいらしい

うつと短歌

 

どうもみなさまおげんきですか、ぼくはげんきです。どうもいとしきやまもとくんです。

今回のテーマ「うつと短歌」

それではさっそくいってみましょう。いつもとノリがちょっと違うのはそういうきぶんになっているだけです。

 

短歌というものについて、なんとなく、説明するというのも野暮という気もするのですが、例に倣ってwikipediaさんに教えてもらいましょう。いいかげん、ぼくはWikipediaの運営に寄付すべきかもしれない。

 

短歌(たんか)とは、和歌の一形式で五・七・五・七・七の五句体の歌体のこと。

短歌は記紀歌謡や『万葉集』初期の作品にはすでに見られるもので、古今を通じ広く行われ、長歌旋頭歌が詠まれることがなくなるにつれて、和歌といえば短歌をさすようになった。五・七・五・七・七の五句体(31モーラ)の詩形は、その時代に盛んであった長い詩形との関連で呼び名が変わった。奈良時代には長歌に対して反歌としての短歌、平安時代以降は漢詩に対して和歌、明治時代後半からは新体詩に対して再び短歌と呼ばれて現在に至っている。狂歌とは文体を同にするが、定義では全く異なるものである。

和歌と近代以降の短歌は、その韻文としてのかたちは基本的には変わらぬものであるが、和歌はその中で使われたいわゆる序詞縁語、また歌枕といった修辞を重要視し、のちのちまでそれらを伝えて詠まれたのに対し、近代以降の短歌ではそういったものは原則として否定されている。すなわち前代からの和歌とは違う思想に基づいて作歌されているということである。

 

だ、そうです。要するに、57577の31字のルールに則り、いろんなことを伝えようよという表現技法であり、遊びであり、文化です。とりあえず難しいことはいいので、5・7・5・7・7でなんとなくそのへんに目についたもの詠んでみたって、短歌です。そうだよね?少なくとも、ぼくはそう思っています。

 

今回のこの記事は書いているやまもとくんの思想とかがふんだんに含まれておりますので、短歌のルールとちょっとでもちがうとかがあればご指摘ください。あくまでもルール違い、という点でだけご指摘いただければ幸いです。

 

わたくし自身の認識として、短歌はとかく自由であるべきだと思っています。うつになってからというもの、時間が有り余っているので、しにたいのとかをぜんぶ31字にぶつけたりします。回復期のうつに必要なのはアウトプットだそうなので、それについて、短歌はもしかしたら”つごうのよい文化”だったのかもしれません。まあうつになるまえからやってんだけどさ。

 

なんかね、これは短歌初心者、歌会とかなんかそういうものにも参加したことがなく、インターネット上でひとり短歌を好き放題よんでるだけのド素人がなんか言ってるぐらいの気持ちで短歌をやっている方には伝わってほしいんですけど。

 

短歌の世界て、めちゃ暗くない?

 

短歌うたう人たち自体はまったく暗くなく、すごく真摯に短歌に向き合っているし盛り上がっている。けど、なんか、へんな閉塞感をすごく感じる。これはわたしがうつ病になって、他人とのコミュニケーションが非常に億劫になっているからかもしれないからべつにそうじゃなければ読み流してほしい。でも、なんか暗い。短歌は短歌で完結していることがゆるせないのかもしれない。

 

でも、31字にぜんぶぶつけるのというのはすごいたのしい。

これは有名な歌人の、短歌にあんま触れてない人でも知ってるであろう歌人穂村弘さんという方が詠んだ一首なんだけど「サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい」ってのがある。これにはじめてふれたときのあの感触はあんまり忘れたくない。

 

「サバンナの」で、ぼくらはサバンナという異国を想像する。「象のうんこよ聞いてくれ」という言葉で、この人の吐露が非常に孤独なのだと感じ、「だるいせつないこわいさみしい」でどうにもならん苦しさを感じる。心臓がぎゅうとなる短歌で、わたしとしては、あ、こういうのなん、短歌、ありなん。というかんじだった。

 

ぼくは再三いうけれど、短歌とは31字のルール以外にはなんにもなくて自由だと感じている。57577とかじゃなくても、31字なんなら、いいんだと思っている。ただちゃんと韻律とかいうものを考えた方が純粋によいものができやすいだけで。

 

そんななのに、短歌を歌う人はあまり外にでない。短歌という文化自体があんまり若者や、文を読まない人に響きづらい文化なのはわかるのだけど、なんでこんなに閉塞感のない文化がどっか閉じこもったようすなんだろうか。と、ぼくはいつもおもっている。

 

歌人ではないけど、尊敬する菅原小春さんが、「モデルの仕事とかぜんぜんやりたくないけど、そういうことをやっていくことで外に出て、だれだろうこのひと?とおもってもらうことで、ダンスをみてもらう、ダンスを世に出すための線をたくさんつくっている」というような旨のことをいっているのをきいて、あ~~~~~~~~~~短歌もったいねえと思った。

 

短歌がすきなひとだけで集まり、よいわるいで盛り上がる。最高の文化だ。でも、なんかどっかもっとできるんじゃねえのかと初心者目線、短歌の世界に触れ始めた人間としてはとてもおもう。

 

うつのリハビリ感覚でアウトプットするようにぼくは短歌を詠んでいる。

短歌を「詠む」というのはなんとなくぼくのような初心者はおこがましい気がしていつも「よむ」だとか「かく」だとか「つくる」といっていたが最近ぼくは「詠んでいる」とちゃんと言うようにしている。なぜなら、短歌は、他人の感性のものではなく、じぶんの感性のものだからだ。

 

短歌をだらだらとたくさんたれながしていると、きぶんがらくになる。

それはぼくはぼくの鬱屈を31字に詰め、爆弾みたいに投げ込んでいるからだ。まあ大体不発弾。そんでもゆるされている。なんていうじゆうを手にしたのかという気持ちになる。

 

そのじゆうを手にしながら誰もが「じゆうだよ、おまえもやってみろよ」と31字を手渡さない。ぼくは、そのへんの街中でうんこ座りしてるようなヤンキーの兄ちゃん姉ちゃんの31字を聴きたい。「57577でなんか、さけびたいことかいてよ」とかいってスケッチブック渡したい。「なんだったら31文字になるならなんでもいいからかいてよ」とかいって。

 

人を殴るのなんて簡単だ。短歌を詠めばいい。

「ぜったいにおまえをなぐるぜったいだゆるしはせんぞ末代までな」

いやこれはあんまりなぐってないけど、わたしのなかではこれも短歌だ。31字は全部短歌だ。だって、サバンナの象のうんこにしんどいのを話しかけてもゆるされる世界だぞ。自由以外のなにものでもない。

 

そこのあなた、いいたいことあるんじゃない。

でもブログとかついったーとかで長く書いたら読むのも書くのも疲れるし31字にしたためてみなよ。短歌の、31字という殴り合いのルールは、本当に31字だけだ。そう信じてぼくはいます。

 

でもぼくはまだ歌会にもいったことなく、なんかに参加することもなく、なんか勝手によんでるだけの人間なのであんまり偉そうなことも、あーじゃのどーじゃのなんのかんのとは言えない。

 

でも、その地点でからしかみえないもんもあるとおもっている。から言うけど、やっぱ短歌界、暗い。なんかどうしていいかわかんない。とっつきにくい。いうなれば、本当は心優しいけど顔が怖くてあんまり友達がいない少女漫画の男の子のようなかんじ。

 

だから、ぼくは短歌の自由な31字を信じて、短歌界というものをもっと知っていきたいと思うのでした。知ればしるほど、実はひらけているかもしれないし、ほんとはもっと閉じてるかもしれない。俳句とちがって31字もかけるし、季語使わんでいいし、見たものそのまま爆弾にできる。そういうのを信じて、これからぼくは短歌のことをよく知ろうと思います。

 

なんかあんまりうつと関係ないけど、うつがすこしよくなってきて、そんでもまだ人とは会えなくて、家にいるだけでなんかやることなくて、でもなんかもどかしくてたまらないのなら、かってに31文字使ってみたらいいとおもいます。じぶんのおもう、つらい、くるしい、いやだ、かなしい、たのしい、願い、しにたい、不安、なんかもう怒涛のきもちをぜんぶ込めてしまえばいい。うつマン、頭働いてないとき、長文かけないしな!ぼくだけかもしれんけど。

 

とにもかくにもぼくはこのじゆうを、そして短歌を詠むことのたのしさということ、短歌を詠むことで知れる日本のことばの美しさや、海外の言葉のおもしろさを、伝えていけたらいいなあなどと思います。なんとかいう枠組みがもしあるとしたなら、それにはまらなきゃいけないとしたら、そんな苦痛は捨て去るし、ぶち壊せるくらいの力でもって、やりつづけたい。

 

ので、短歌のせかいの先輩方、たくさんいろんなことをおしえてください。くそなまいきで申し訳ない。でもさあ、短歌の自由や楽しさをよむひとだけの自由にしとくのもったいないんだもん。ぜったい。本読まなくても短歌は詠めるしご飯はうめえよ。

 

でもまあぼくはまず歌会に参加することからはじめます。そしてそのまえに人間との対面の会話と人数がたくさんいるところでも平気なツラできる程度にはうつを治し、ゴリラから進化したいと思います。

 

 

 

おわり。

 

 

 

 

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