うつとしにたい

ひとはしんでも、いいらしい

うつと自殺

 

どうもこんにちは、やまもとくんです。

みなさまいかがお過ごしですか。

今回のテーマは「うつと自殺」

 

かいていくのが正解なのか。ちょっとやめようとおもいました。かいてはいけないのではないかとおもいました。ほんとうは「自傷」についてのことをつたえたくてかこうとおもっていたけれど、きょう、ちょっとしたことがあって、自傷ではなくて、おおきく「自殺」といれました。

 

きっと正解だとおもいたいです。きょうのは、よんでくれるひとがすくないブログだけれど、だれしもによんでほしいです。

 

自殺。

みなさんは、しにたいとおもったことがありますか?

きっとあるでしょう。昨日のブログで書いたね。「しにたいとおもうこと、それ自体が高熱と同じだから、しかたない。まあ、なんとなくうまくつきあって、えっちらおっちら、かかえながら、その熱を下げるしかない」のだと。御多分に漏れず、やまもともしにたいと、おもったことがあります。違いますね。思い続けています。おもっています。おもうことを、やめることができません。

 

いじめが理由のひともいるでしょう。

お金が理由のひともいるでしょう。

仕事が理由のひともいるでしょう。

人間と人間のかかわりが理由のひともいるでしょう。

生きているひとの数だけしにたい理由もあるのでしょう。

 

今回、自殺をテーマに書きだしたのは、自分自身が今日、ほんとうにかなしく、こわく、どうにもならなくなってしまったからです。

 

今日ではない、以前、わたしは首を吊りました。家の短いカーテンです。両端で首を結んで、体重をかけ、1度目は苦しくもなく呼吸も止まらずやり直し、2度目に苦しくなり、意識がなくなりかけた瞬間に我に返りました。ああ、くるしい死んでしまうと我に返りました。そして「地獄かよ」とつぶやきました。地獄でした。死ねなかったことがではなく、「生きることをやめようとしたこと」が、地獄だと思いました。

 

首を吊ろうとしたのは、まだちゃんとした病院にいけておらず、しにたいの発作がブワッと出てきたそのときでした。

 

きっと、中には、手首を切る人がいるでしょう。薬をいっぱい飲む人がいるでしょう。それをツイッターで報告する人もいれば、そのまま死ぬ人もいれば、病院で寝たきりになる人もいるでしょう。いろんな人が、いろんな風に自殺をしようとするでしょう。

 

いきているのはつらいですね。死のうとするのもつらいですね。いきているのはつらいから、しぬことのほうが楽ちんになってしまいますね。混乱しちゃいますね。なにがただしいのかな。いまのわたしにはまだわかりません。

 

きょう、わたしは朝、自分の名前がわからなくなりました。

死にたいという強い思いが体を支配し、混乱の中暴れ、携帯を投げ、壁を殴り、血が出るほどに指や腕を噛み、体中を自分で殴打して、そして首を吊るためにカーテンに手をかけました。

 

「ああらくになれる」「ああたすけてもらえる」「ああいきていかなくていいんだ」

 

いきているよりも500倍、すてきな考えでした。

 

手首を切ったり、お薬をたくさん飲んだりする人、きっと、その瞬間、苦しさはないですよね。わからないけれど、わたしは暴れながら、しにたいしにたいと泣きながら、わめきながら、死ねることがわかったら楽になって、たすかった、たすかったんだとおもいました。幸福すらかんじました。

 

でも、そのあと、それよりも100倍、かなしかった。

 

死ななくて済んだとき、1度目も、2度目も、苦しくて悲しかったんです。それは死ねなかったからなのではなくて、「ああ、じぶんのこころまでうばわれていく」という絶望でした。

 

しにたいと混乱して、しぬことがしあわせだとすらおもい、けれどその根源は、「生という幸福を享受するには死しかない」という現実がありました。生命、すなわち、生きていくためには死ぬしかないんです。そういうふうにしかおもえなくなってしまっていたんです。

 

いみがつたわっているかな。わからないな。どうでしょうか。つたわっていますか?

 

生きたいのに、生きるには死ぬしか方法がないと思って、しまったんです。

 

ぼくは、それを、こころが奪われたと思いました。生きたい心を、死にたい心に奪われて、生きるための死を選ばされたと思いました。

 

しにたい、

あたりまえです。そういう病気です。しにたくてあたりまえです。しにたくていいです。しにたいってたくさん言いたいです。言えます。しにたいしにたいしにたい。わたしはしにたいです!でも、鮮烈に生きたいです。しにたくないです。しにたくないんです。でも、しにたい。いきるためにはしぬしかない。それしかない。その考えしかできない地獄がここにありました。死ぬことを選ばされています。我々は、しぬことを、幸福だととらえます。でも、いきながらえたあと、すこし安心します。いや、わたしは安心しました。「まだしにたいとおもえる」とおもいました。

 

わたしは、生きたいです。

 

リストカットをして、お薬をたくさんのんで、死にたい人たちが、ついったーで傷や薬の包装の残骸を乗せています。それを「かまってちゃん」とたたく人がいます。「しにたいならしねよ」という人がいます。中には、本当にしんでしまうひともいます。

 

ちがいます、しにたいからやってんじゃないんです。いや、しにたいんですけど、しにたいんですけど、「死のうとしないと生きられない」から、死のうとするんです。死にたいと叫ばないと生きることを選べないから、死なないと生きていくことを選べないから、苦痛から逃げないと生きていけないから、自殺しようとするんです。

 

生きていて、死ぬことよりもたのしいことがこれから先あったとして。それが救いになることは絶対にありえないんです。死ぬことが生きるための絶対条件なんです。死にたいと叫び続けることが、そして勢い余って死ぬ可能性があるようなことが、生きていくぎりぎりの、わたしたちのような人類の、ぎりぎりのところなんです。

 

死にたい人が、しにたいというのは、こんなにもくるしんでるんですとさけぶのは、いきるためです。生きていたくないなら死んだらいいじゃん、なんてかんたんなことを言うやつは、いきることもしぬことも軽んじているひとです。

 

わたしは生きたいです。

きっと、本当につらくて死にたいという人もいるでしょう。しにたいという人もいるでしょう。このブログを読んでも「ちがうよ、そんなんじゃないよ」と思う人だってたくさんいるでしょう。でも、こういうひともいるんだよってことをしってほしかった。

 

生きるために命を絶つことを、馬鹿だと言わないでください。

生きるために命を絶とうと手首を切り、首を吊り、薬を飲み、叫び続ける人を、どうせ死なないと笑わないでください。

 

死にたい=生きたい、そんなことは思いません。死にたいという人は、本当に死にたい人です。ほんとうのほんとうに死にたい人です。死にたいから生きていけているだけという話です。テレビや、きれいごとの本で、死にたいというのは本当は生きたいってことだって書いていたりします。それは嘘です。わたしは生きていきたいけれど、本当に死にたいです。生きるために死にたいんです。

 

そしてそれを、だれか、どうか、ゆるしてあげてください。

 

いいよ、手首切っても。たくさん薬飲んでもいいよ。首つるのもいいよ。なんでもいいよ。でも、それがもしも、万が一、だれの救いにも、死のうとしているあなたの救いにもならないのなら、どうかお願いです。救いにならないのなら、お願いですから、死なないでください。救いにならないのなら、生きるのをやめないでください。あなたの命の尊厳はあなたにしか守れません。あなたの自殺はあなたの命の尊厳を守ります。あなたの命をゆるせるのはあなたのこころだけなのです。だから、あなたの自殺がもしあなたの救いにならないなら、首を吊ったり手首を切ったり薬を飲んでも、「ああ、救われたな」と思えないのなら、お願いです、わたしと話しをさせてください。ツイッターでもラインでもいいです。なんでもいいです。電話はわたしがしんどいからむりだけど、あなたの命をおねがいだからゆるしてください。おねがいです。いきるためにしにたい我々は、しぬことだけが生きるための最後の手段です。いきたくないなら、おねがいです、いきたくないじぶんをゆるして、くるしまないで、あなた自身をすくってから、おねがいです、生きてとは言わないからあなた自身の生命の尊厳を、あなた自身だけは守ってあげてください。

 

生きていてよかったと思えた、幸福なわたしより。

死にたいと暴れて苦しんだ今日のわたしへ。

そして、死にたいと暴れて苦しむ、いつかのあなたへ。

どうにかゆるしを手渡してください。

 

支離滅裂な今日のブログ、きっと明日読んだら笑ってしまう。でも、だれかにふれてほしい言葉を詰めました。誰かが読んでくれたらうれしいです。鼻で笑ってもいいです。こんなこと思っちゃいねえよと怒ってくれてもいいです。誰かがそれでもみてくれて、だれかが、いいんだな、って思えたらわたしが生きていけます。おねがいです。だれかにとどけてください。これからさきも、死ぬことで生き続けるひとたちへ。