うつと自己評価、そして努力について
どうもこんばんは、こんにちはやまもとです。
今回は「うつと自己評価、そして努力について」です。
みなさん、みなさんの自己評価って、どんな感じですか?試しに5段階でいいのでつけてみてください。ほんとざっくり。てきとうな価値観でいいので、じぶんのこと、5段階で、人間レベルを評価するとどんなかなっていう感じで想像でつけてみてください。
わたしはうつになったいま、5段階で評価したとしたらマイナス5です。なる前はたぶん2くらいでしたかね。無論マイナスな。
わたしは、自身の存在理由や、生きていく気力のようなものは、だいたいが「他人からの評価」です。他人から評価を得られなければ生きている価値がないと思っていて、懸命に仕事をしましたし、結果的に、どんな仕事でも評価をしていただきました。そして、どんな仕事でも最後には必ず、ぜんぶがいやになってぜんぶすててきました。
今回は、そのおはなしを、ちょっとだけします。興味のない方もいるかもしれませんが、というか、そういう方が大半だとおもいますが、同じような経験がもしあれば、ちょっとしたなにかの、救いになれば。助けになれば、と、思います。暇つぶし程度にご覧ください。
最初の仕事は飲食業でした。飲食業といってもファミレスなどではなく居酒屋で、しかも、ガッチガチの、本気で人を喜ばせることが大好きなひとたちのあつまりでした。人によっては宗教団体といわれるタイプの居酒屋です。それでもわたしは大好きでした。なぜなら、そのおみせで、わたしは人に喜んでもらうという楽しさを知ったから。
当時高卒上京したてのプー太郎で生きるためにどうしようもなくて入った飲食業で、ほんとうは接客なんかやりたくもないのに、事務とかしたかったのに、しかたなく入った業界で、6年間血反吐吐きながらやってきました。だって、楽しかったんですよ。喜んでくれた。
1度、お店が急に停電になり、お店のど真ん中にあった緊急用のライトがピンスポットのようにひとつだけついていたことがありました。
店長やほかのスタッフが復旧しようとばたばたし、お客さんがどよめく中で、わたしはそのピンスポットの下に立って、大声張り上げて、「なんかのイベントだと期待した皆様すみません!これはまぎれもなく停電です!そのかわりといってはなんですが、ご安心ください!すぐ復旧するんでそれまでわたし、全力で歌って踊ります!」とかなんとか言って、本気でアカペラで歌って踊りました。ちなみに曲はEXILEのチューチュートレイン。しかも、サビだけエンドレスリピート。ほかにもやりようがあっただろうと我ながら思う。
でも、それがめちゃくちゃにウケて、お客さんもパニックにはならず、あれ歌って、踊って、と、リクエストまで飛んできて、そして、あれが本当にわたしのやりたいことでした。舞台に立って歌って踊るとかそういうことではなく、お客さんが笑顔で、楽しんでくれることをやる、喜んでくれることをやる、ということです。
ほかにもいろいろありますが、そういう経験があったから、わたしは接客業というものが大好きなのだと胸を張って言えていたのだと思います。真剣にやって、喜ばれ、自分がうれしく、努力もし続け、だからこそ認められた。
その喜びはなににも代えがたいものでした。みなさんにも、そういう記憶はありませんか?
もともと本当に仕事ができず、毎日怒られてばかりで、泣きながら家に帰り、それでも生きなければならず必死になって、体を壊したり、仕事にいけなかったりしながら、それでもやり続けて、努力をし続けて、はじめての昇進のとき、昔の泣いてばかりの仕事のできなかった自分を知っている上司が「立派になったね」と言ってくれて、努力を認めてくれたのがうれしかった。
仕事ができなかったころを知らない、後から入った同僚が「そのポジション、やまもとくらいしかできないでしょ。選ばれてあたりまえだよ、ほんとすごいよ」と言ってくれたのを聞いた上司が「そのポジションをおまえがやるのがあたりまえだって、いまのお前しか知らない人はあたりまえのように思うのが面白いな。あれだけ泣いてばかりで、仕事もできなかったのにな。がんばったな」と、言ってくれたのを、覚えています。
さいしょは、努力をしてがんばらないと人についていけないから、おいていかれたくなくて必死にがんばりました。頑張ったら頑張った分だけ評価を得ました。評価を得ると、生きていていいのだと思いました。ここが居場所なのだと感じました。
まわりの人よりも仕事ができないから、常に120%で仕事をし続け、そしてそんな自分が大好きでした。頑張れている、いま、わたしは評価をされていて、がんばれていて、他の人とおんなじ程度には、仕事ができているんだと、安心していました。他の人の足を引っ張ってない、頑張って努力をしてきて、ちゃんとできているのだと。
仕事ができなければ、わたしに生きている価値はありませんでした。
そのくせわたしは、すててしまいました。すべてを。
じぶんの努力も、じぶんの努力を評価してくれたひとたちも、なにもかもです。
いまでも、本当にいまでも夢にみます。うつになってから、その頻度は極端にあがりました。そしてその人たちに、置いていかれる夢をみます。わたしより後から入ったひとに、こんなのもできないのと言われる夢です。ほぼ毎日、目が覚めてもその夢から醒められず、「ああ、今日、出勤、いやだな、」などと思います。いま、仕事、お休みさせてもらってるのにね。飲食業だって、もうずっとまえに、やめちゃったのにね。
なんで、あのときわたしは、あの世界を捨てたのか。こんなふうになってから思い出しては夢にみるほど死ぬ気でやってきたものを、なんで捨ててしまったのか。いやになってしまったのか。それはもちろん、ぜんぶぜんぶぜんぶじぶんの甘えのせいです。でも、気づいたこともありました。それは今日気づいたことでした。
わたしは、やりたくありませんでした。仕事を、ではないです。努力を、ではないです。「評価を得るための努力」を、です。
わたしは仕事が大好きでした。泣きながら頑張って努力し続けたのも、生活のことはもちろん、周りに置いていかれたくない、出来ない自分が嫌い、というのもあったけれど、それは決して評価をされたくてし続けた努力ではありませんでした。
自信をつけたわたしは、どんどん周りからも褒めてもらい、評価をいただき、頑張りました。少しでも手を抜けば、「仕事ができない自分は置いていかれる」から、本当に毎日が必死でした。楽しくもあり、必死であり、でも、1日1日、すこしずつすこしずつ、「頑張らなきゃ」が増えていきました。
もともとわたしの自己評価は、5段階でいったら2くらいで、自信なんてあるわけもなく、入った当初の仕事ができない自分のことがいつまで経っても忘れられず、それこそ、そこに戻りたくない一心で働いていました。どこの職場にいっても、その経験がなくなることがありませんでした。
昇進した後、ずっと、その経験はぶり返し、そして、昔とその当時と違ったのは「喜ばれたい」ではなく「怒られたくない」「評価されたい」「認めてもらえない人間に価値はない」の努力をしつづけたのです。
わたしは仕事が人一倍できない。
わたしは、だから、誰よりも努力をしなければ、頑張らなければいけない。
わたしができていないのは、努力が足りないからだ。
わたしが頑張ってないから。頑張り方がわからないからいけない。
期待をしてもらっている。評価をしてもらっている。
期待に、評価に応えなきゃ。努力をしなきゃ。どうやればいいのかわからない。
また怒られた。仕事ができないから怒られるんだ。仕事ができないのは、努力ができてないからだ。頑張ってないんだ。頑張ってるつもりになってるだけで、わたしは本当にやっぱり、なんにもできない人間なんだ。
どうやってこれ以上がんばろう?
自分はなんで怠け者なんだろう?
なんで甘えてしまうんだろう?
もうすでに、わたしの中での仕事の目標は「人に喜んでもらうこと」ではなく「会社の人に評価をしてもらう」。本当は、喜んでもらえれば評価してもらえる、そういうイコールの世界なのに、わたしにはそんなことはわからなくなっていました。
そうなったとき、こころが限界になり、逃げるようにして飲食業界を辞めました。
毎日12時間以上働き、休憩もほとんどなく、月に5日とか6日の休みの中、3日は仕事場になにかしら、仕事しに来てました。当時は、遊びにきてる、仲間に会いにいってる、ご飯食べにいってるみたいな感じでしたが、今考えると結構異常です。当時はそれがふつうで、体も心も悲鳴をあげているのに気づいていなかったんですね。というか、すでにこの時点で、うつになる土台ができていたのだと思います。
そして逃げたことで、またさらに、わたしは自信を失いました。
それでも生きていかないといけないから、わたしは新しい、今の職場に出会いました。
いまの職場はそりゃあもういい人ばかりで、未経験で入った特殊な業界だったために覚えることがもう本当バカみたいに多く、やることも多く、上司はワケのわからない変人で、周りの人もへんてこな人ばかりでしたが、販売業は接客が大好きな自分には合っていたのか、本当に楽しくて、自分が最初に抱いた「喜んでもらう喜び」だけで仕事ができていました。この当時はそのワケのわからない上司とも周りのスタッフさんが驚くほどウマが合い、ほんとうに楽しかった。
自己評価が5段階中、4くらいにまで復活しました。
けれど、ある日、やっぱり、職場の中で、異動や環境が変わりました。人が大幅に減り、本来なら、わたしがやらなくてもいいことをやらざるを得ず、本来2人や3人でやる仕事を毎日1人でこなす日々が続きました。
ほかの店舗の人だったら、褒めてもらえるようなことをやっても褒めてもらえない。
ほかの店舗の人だったら、やらなくてもいいことをやらなくちゃいけない。
それで、人がいないのはどこのお店も一緒だからと手を抜くことができず、やらないといけない!完璧にこなさないといけない!と必死にやりきってました。周りからもすごいすごいと褒められ、それなもんで、またもや褒めてもらえる!よかった!認めてもらえる!大丈夫なんだ!と、「お客さんに喜んでもらう」ではなく「職場の人に認めてもらう」をよりどころにする生活の開始です。学習しねえとはまさにこのこと。日々すり減り、自分ができてないから怒られ、ミスをするのだと自分を責めては、どうやって努力をしたらいいのかと自問自答する馬鹿のような毎日。
それを続けながら、でも、周りの人に助けられながら、しんどくってもやり続けてきて、ある日、「店舗異動して、リーダーをやってみない?」と言われました。ほんとうにぴったり2年目になったころ。
そのとき、わたしは、頑張っている、と、自分でちゃんと思えていました。ただ、「これ以上頑張るにはどうしたらいいだろうか?」と思っていました。「これ以上頑張って、もっと評価してもらうにはどうしたらいいだろう?」と。
ほんとうのわたしは「誰かに喜んでもらいたい」で生きているのに、うわべのわたしはそれを忘れて、評価と、認めてほしいの自己承認欲求だけで生きていた。ほんとうは、あまりにも辛く、どうしても我慢ができず、もう、その仕事を辞めるつもりでいたにも関わらず、ちょうど未経験からぴったり2年目、異例の速度での打診。悩んだ末、やらせてくださいとわたしは言っていました。やめる気だった仕事のくせに、認めてほしい、自分を評価してほしいの一心で。
そして、その結果、わたしは異動から2週間、仕事に行く途中の電車でパニックを起こし、そこから仕事に行くことはできなくなりました。
あまりにも馬鹿すぎて、恐ろしくなります。
恐ろしいほど低い自己評価を、他人の評価で賄おうとし、キャパシティを無視して頑張って、いや、むしろ正直、わたしは自分が頑張れていたのかもわかりません。だって、頑張れていたら、2週間なんて短期間で仕事いけなくなるようなことが起きるわけがないからです。自分のわがままで、自分が認めてもらえるだろうというだけで、自分の力の及ばないことをやろうとして大きな迷惑をかけ続けている。
この記事を書きながら、わたしは何度も何度も何度も何度も書くのをやめようとしました。あまりにも自分が馬鹿で本当に使えねえくそ野郎で、うつだなんだも、甘えなんじゃないかと恐ろしくなり、逃げてばかりの自分が大嫌いで、いまも吐きそうです。震えが来ます。死にたくてどうしようもありません。どうにか、誰か助けてくれと思います。
それでもわたしはさっき書いた、「気づいたこと」をどうしても伝えたくてそれがだれかのなにかのどうにかなにかのためになったらいいなとおもってここまで書きました。これこそ究極の自己満足のオナニー記事です。ここまで読んでくれた人がいるとは思えません。それでも自分のためにも書かせてくださいお願いします。すみません。お願いします。書きます。
評価を得るための仕事と、あなたのしたいと願った仕事を、どうかイコールにしないでください。
評価を得るための行動と、あなたが嫌だと思った行動を、どうかイコールにしないでください。
世の中の人は「やりたいことだけやれるわけがない」といいます。それはそうかもしれません。でも、「それはやりたくありません」という権利をぼくたちは持っています。
あなたのしたいと願った仕事は「評価がされない」かもしれません。それでも、「評価がされたい自分」に負けないでください。そして、「評価がされたくてもがいている自分」を、「評価されたいよね、わかるわかる。いいと思うよ」と、認めてやってください。
わたしは、評価がされたい自分を認めてやることができませんでした。
評価のための努力をしていたことに気づいたとき、あまりの虚しさに呆然と、パソコンの前で、わんわん泣くしかできませんでした。
評価のための努力をしないでください。自分が喜べる努力をしてあげてください。それがイコール評価なのであればそれはたいへんすばらしいことです。そうでない方は、自分が喜べる努力を、誰にも邪魔されない、自分だけの努力をしてあげてください。そして、努力したくなんかない人は、努力なんてしないでも、いいです。自分が喜ぶことだけをしてあげてください。
したい努力をしてください。
したくない努力をしないでください。
あなたのためのことをしてください。
どうか、いまのじぶんが、じぶんのことをどうおもえるか、みつめてください。
これ以上がんばれないとおもうならがんばらないでください。
もっとがんばらないといけないとおもうなら、なんでもっとがんばらないといけないのか、ほんとうにもっとがんばりたいのか、なんのためにがんばりたいのか、自分とお話をしてみてください。
まだまだがんばれてないとおもうのなら、ちょっと休憩してごはんをたべて、がんばんなくてもいいかもしれないって、じぶんにきいてみてください。
どうか、あなたのことを、認めて、がんばってるじゃんていって、がんばらなくてもいいよっていって、がんばりたいならやれるとこまでやってみなっていって、やれないなら眠って、にげたことを悔いるなら、にげたことでじぶんを守ったじぶんをほめて、とにかく、とにかくおねがいだからじぶんをきらいでいいから、じぶんのことをちゃんときいてあげて!!!!!!!!じぶんのことをちゃんときづいてあげて!!!!!!!!!
我々には、最後に死ぬ権利があります。
その権利を行使するとき、「あいつにしらしめてやる」とは思わないでください。
その権利を行使するとき、「わたしはこれで救われるのだ」と思ってください。
そうじゃなければ、じぶんのことをちゃんときいてあげて。じぶんのいいたいことを、じぶんのたのしいことを、じぶんがうれしいことを、じぶんがだいじだとおもうことをきいてあげてください。
そして、自分にはなにもないとおもうあなた。
わたしにも仕事しかありませんでした。仕事以外に好きなものがないのでいまなにやっていいかぜんぜんわかんなくて、それもすごく死にたいです。逃げているだけなのではないかと毎日自分を責めては、うつという甘えなのではないかと怖くて死にたいと願います。そういうひとはあなただけじゃありません。ただし、あなただけじゃない、とわかっても、孤独は消えてなくなりません。だから、どうしてもどうにもならないとおもったら、どうにもならないじぶんに「どうにもなんねえな」とひとこと、言ってあげてください。どうにもなんねえときは、どうにもなんねえし、我々はこれからもどうにもなんねえです。それが病気のせいでそう思うのかどうかはもう治ってみないとわかんねえし、わかんねえから、やり過ごすしかねえんです。
やり過ごそう。ぼくたちは、必死に努力をしてきました。もし自分が、今まで努力なんかしてこなかったと思っていたとしても、大丈夫。あなたは呼吸をして死にたいのを抱えて今まで生きる努力をしてきました。最低価値しかつけられない今ですら、生きています。
ああ、また本題からずれてしまった。けれど、伝えたいこと、いっぱいつたえました。なあ、がんばろうぜ。しにたくてもいいけど、がんばらないをがんばろうぜ。しにたいことをさけぶのをがんばろうぜ。だれかのために、じぶんのために、いきるのもしぬのも、ただひたすらじゆうのためだけに、わたしはまだまだ、なにかをつたえたいとおもいます。
おわり。
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