うつとしにたい

ひとはしんでも、いいらしい

うつとさみしい

 

やあどうもぼくだよ。やまもとだよ。げんきかい?

そんな今回のテーマは「うつとさみしい」

”さみしい”の根源は”うつ”にはないとおもうけど、うつになるとばかみたくさみしくなる。あれはいったいなんなんだろうね。

 

ぼくはそういうのを埋めるためにTwitterとかでさみしい探索と称してさみしさを探し回ることをよくします。

「さみしいよ~かまってよ~だれかといたいよ~><」という人類を探しているのではなく、例えば、「秋晴れで高い空の下にある、さびれた公園の紅葉した大木と落ち葉のこととかをみて、「きれいだな」と言える人」を探しているんです。

 

わたしはなんというかそういうさみしさを感じることや、さみしい気持ちの総称として透明なさみしさと表現しているのですが、伝わるかな。わたしはいつもこいつを探しているのです。透明なさみしさをもつひと。透明なさみしさを吐き出しているひと。

もしかしたら、その、きれいだなって言った人はさみしくないかもしれないけど、わたしはそこにさみしさを感じるのです。

 

照れや恥やなんやらそういうのを忍びつついうと、ぼくは非常に寂しがり屋なんですよね。だからといってはなんですが、「誰かかまって」といろんな病んだ愚痴を吐き出せる人のことを尊敬こそすれ否定はできぬのです。だって誰かに構ってほしいもん。でもそれ以上に嫌悪があるのです。まあ、じぶんがすなおにそうすることができぬという恨めしさみたいなんもあるけど、それではなく、なんとなく、そのさみしさは濁りだなあと思うのです。

 

なので、そういうひとたちがそういうひとたちでさみしさを埋め続けていくという状態は、「ああたぶんあれ、埋まんねえのになあ」と思いながら遠目から見ていたりするのです。濁りをそのまま垂れ流し、濁りをそのまま受け入れていては、いつまでも濁りきったまま抜け出せない泥沼なのになあと思いつつ、ぼくは純度100のさみしさを探します。

 

さみしさとは孤独であり、かといって孤独がイコールでさみしさではないのがみそです。孤独をどう感じどう表すかはその人によりけりで孤独を孤独としない人間もいれば、孤独を強さとするひともいて、なんかいろいろいます。誰よりもつよく、愛される人間であっても、さみしさを感じるという理由でぼく自身惹かれるひともいます。中澤系さんとか。彼は孤独よりもさみしいのひとであってのではないかと、彼の切り取る短歌を詠むと思います。逆にぼくの大好きな菅原小春さんは圧倒的にさみしくないのに孤独であり、孤高であり、こればっかりはほんとうに人それぞれで、さみしいとはむずかしいものなのです。

 

そんななので、ぼくは、孤独を他人に委ねず、じぶんだけのさみしさとして向き合い続けるひとを愛しています。

 

冬の夜の4時とか5時とか、ほとんどもう夜になってる夕暮れがあるでしょう。あいまに群青があって、そして空気が冷たくて、これから夜が来るのがわかる時間帯があるでしょう。ああいう、心臓がとまるようなさみしさのことを切り取れる人が大好きなんです。

そういうさみしさにふれたときにだけ孤独であるということを認められる気がするし孤独であるということを忘れられる気がするし孤独であってもよいのだという気持ちになるし、そうでないと、誰かとなりに人がいてほしくてたまらなくなるから、世にいう「かまってちゃん」というのになるから、いつでもさみしさ探索をしています。

 

秋とか、冬はいいですね。さみしさをたくさんくれます。それも純度の高いさみしさです。

 

朝、寒い中腹を満たすためだけにおいしくもないパンを食べ、それをどうということもなくツイートして、ふと通勤途中の電車で、自分の孤独に気づくような人がすきです。そしてそれに苦しみ、けれどそのさみしさ、孤独について、だれになにをいうでもなく、自分としてしまう人が大好きなのです。

 

ぼくはいつも、本当に純度の高いさみしさは陽光のもとにしか生まれないのだと信じています。さみしいことはいつでもあたたかいのだと思っている。

それが勘違いではなく本当に暖かいものなのだと証明を、どうかだれかしておくれとおもうし、したいともおもう。だって、さみしさはひだまりのなかにしかないんだぞ。あたたかいにきまってる。だって、さみしさは孤独にしかうまれないし、孤独は自分にしか生まれないのだから、そんなのあたたかくないとやってらんない。

 
 
ぼくが見たいさみしさは、やっぱり純度100なんです。
 
冬の子供の赤い頬。
誰もいないさびれた公園。
誰にも伝えられることのない自傷のあと。
生きることを常に望みながらどうにもならず身動きが取れない背中。
高い空。真夜中のベランダ。ふれることができなかっただれかの遺品。
 
さみしいのに、それを叫べない孤独。
さみしいのに、それに気づかず在る孤独。
 
「わたしは生きていきたいよ」といったその次の日にはしんでしまうようなはかなさと、15時半のひだまり。
 
いくらでもさみしいきもちはおもいつくのにそれを持ち合わせているひとや、切り取っているひとをみつけるのってむずかしい。それでもわたしはそんなさみしさを探しながら、さみしさ探索と称してぼく自身のさみしさを見て見ぬ振りをするのです。
 
どうかあなたもあなたのすきな”さみしい”を探してみてください。あなたのすきなものはあんがいじぶんのなかにあるかもしれないし、隣の家の犬小屋なのかもだし、死の淵のベランダなのかもしれないし、わからないけれど。
 
冷たい、さみしい、透明なそれらを手にしたあなたはたぶんきっと、ちょっとやさしく、あたたかいんじゃないかと、ぼくは思う次第です。
 
さみしさを濁らせず、さがしにゆこうぜ。そのやわいやさしさのもつ温度を味わえるのは、ぼくらのようなさみしさを持つ人たちだけなのだから。
 
 
 
なんだかまだいいたいことがあるようなきもするけどこの記事の全部が全部自分の言いたいことの的を外している部分もあるきもするけど、いつかわかる日がくるので、今日のところはこれで勘弁してください。
 
今日もきょうとて、さみしさ探索だ。
 
おわり。